起きることは全体性の中でただ起きる



【自分の意思より先に、すでに体は動きだしている】
と、いうことが理論的に証明された。

と、言う話を聴いたのは何年前だろうか?
この話を聴いたとき、心底ほっとしたのを思い出す。

何にほっとしたのか?というと

ずっとずっと前から根拠なく思っていた
「起きることがらすべては、自分のせいではない」
ということが、科学的に証明された!から。

例えば目の前の飲み物を手に取るとき
「自分が」
「自分の意志でコップをとり」
「自分で飲んだ」
と、私たちは思い込んでいるわけだけど。

本当は
身体の筋肉はすでに「コップを手に取る」という行動を先に発動していて
そのあとに「飲み物がのみたい」という意思があ・と・か・ら!追いかけてきたわけです。

要するに「コップを手にとる」という行動は、すでに勝手に起きていて
そのあとに思考が「自分が自分の意志でコップをとった」と意味づけしているということです。

ということは!ですよ?
人生の成功と言われることも挫折、失敗もなにもかも
「自己責任」ではなく「だた起きたことを自分のせいだと意味づけしている」
ということになりますよね。

まぁ身もふたもない話ですが
この世界には「良い」も「悪い」もない。
ただ起きる現象に勝手にそれぞれが「良い悪い」「善悪」の意味づけをしているだけ。

「願えば叶う」的な話も、つまるところ、その人が願ったから叶ったわけではなくて
「全体性」がその人が「そう願うように作用」したから「願い」叶うわけです。

人が天にオーダーしているのではなく、逆で「天」が「人」にオーダーをだしている。

一見「挫折」「失敗」と見えることもそう。
全体性が望む「流れ」の1シーンに過ぎず、シンプルに言えば「その人の過失」ではない。
そうなるようになっていただけ。

昼間の「小室」さんの引退会見をみていて
小室さんを責める意見、擁護する意見。
文春を蔑む意見。
ふ~んと聴いていてため息がでました 笑
「本当は誰も悪くないんだけどな~」と

全体性の流れ、変化の中で、小室さんは引退というシフトの時なのだろうし。
やっぱりその変化の中で、それをサポートするかたちで文春はその役割をしただけ。

まぁ私の「自我」領域では「文春ゲスだな!」と感情は毒気づきましたけど 笑

でもそういうことなんだと思う。
仕方のないこと。
物事はただ流れ、ただ変化していく。

出逢う。愛し合う。生まれる。別れる。病気になる。事故にあう。死。
すべてはただ起きる。
全体性の動きの中でただ起きる。
ただそれだけなんだと私は思う。

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